目の前の現実は錯覚かも?と疑ってみることで当たり前に願いが叶う。

今日も整理のために書きます。

そういえば、ブログに書いたかな?

少し前にお風呂で思ったの。
「ブログを書く=残る」
そんな当たり前のことが降ってきた。

このブログは私の整理と、
何かのタイミングで子供たちが見てくれたら嬉しい。

水を飲むように当たり前に願いを叶える。

先日何かの動画で
「水を飲むのも、お金を手に入れることも同じ難易度だ」
そう説明していた。

これ、エイブラハムの本にも書いてある。
たしか「ボタンと城どちらの引き寄せも同じ」
そう書いてあったかな?

 

で、動画聴きながら納得した。

内容は私の言葉だとこんな感じ。

①水を飲みたい!(意図)
②水を飲みに行く。(行動)
③水を飲んだ。(結果叶った)
この意図に何の迷いもなく行動し、
のどを潤すことが出来るのは、
自分が水を飲めることは当たり前だと思っているからで。

これが、月収100万の場合
①月収100万になりたい!(意図)
②本業?副業?宝くじ?遺産相続?等々(行動)
③月収100万に(すぐなった?一年後?ならなかった?)
急にハードルがあがってしまう。

みんな水を飲みたいと思った時に、不安になりませんよね。
「私は本当に水が飲めるだろうか?」
「水ってどこから飲むんだっけ?口でいいんだよね?」
「水を飲んで誰かに批判されたりしないかな?」
誰も悩んだりしません。

文章にすると面白いし、当たり前なんだけど。
違う角度から聞くと新鮮だった。

昔の私のように頭が硬い人からは、
水と100万は違い過ぎると言われそうですが、
前記のとおり同じ、
難易度を決めてるのは自分なんです。

ここを認められるか認められないかが分かれ道。
本当に認めることで変わる。(経験者)

お手本は子供やペット!いま気分の向きを変える。

同じ動画で何度も
「向きを変える」という言葉が出てきます。
この表現も新しい!

これも私の表現になるけど、
西を向けば日が当たらず暗いけど
東を向けば眩しいくらい日が当たってる。

自分は向きを変えただけなんです。
光を頑張って作らなくてもいいんです。
努力しなくていいってこと!

でね、なんでみんな向きを変えないか、
今朝外で体操して気づいたの。
きっと光を真正面で受けたことがないからこわくて、
光にお尻を向けて「チラッ、チラッ」と少し振り返ってる。
「光の方を向いたら目が見えなくなるかもしれない。」
そんな感じ。

もっと言うと、
真正面から受けても大丈夫なことを忘れているだけ。

毎日朝日に向かって光を浴びながら体操してる。
私は眩しいからって西を向いて体操はしない。
慣れだよ。ね。

「叶わない」「苦しい」は向きを逆にしよう。

子供・ペットなんてすぐに向きを変えるじゃない。

さっきまで泣いてた子供がもう笑ってる。
そっぽ向いてた猫が急に甘えてくる。
ふて寝していた犬が今はしっぽ振ってる。

大人はすぐに条件や思考で判断しますが、
子供・ペットのように目の前の現実を無視して
いま気分を変えていい!
ご機嫌でいることは社会貢献です(^^♪

目の前の現実を「疑ってみる余裕」を持とう

私は自分の内側を見る時間が増えました。
本当にありがたい環境です。

最後に動画では
現実を「錯覚かもしれない」と疑え!
そう話していました。

解決がゴール。
夢が叶うことがゴール。

その解決や夢って本当にゴールか疑うことで
現実の見え方も変わるとの話でした。

正しいと思い込んで観察するのと、
間違いがあると思って観察するのでは
見えるものは違います。

間違い探しや、推理小説なんか読んでると
確かにその通り。

自分が今想像している「解決」「夢」
それが叶うことで自分は何か楽になりますか?
気持ちが晴れて心軽くなりますか?

私たちはきっと不要なものを手放して、
軽くなることで幸せになる。

ブログ書きながら
「夢が叶うこと=幸せ」とは限らないのかもしれない。
私の整理と、子どもたち向けに書いてるのに、
なんか残念な感じになってきたか?

この「疑ってみる」ことが
不要に握りしめてる何かを知るきっかけになる。
その結果自分が夢だと思っていたことが夢じゃなくなるかもしれない。

私は夢や目標はいつでも変わるし、変えていい。
軌道修正をする勇気を持ちたい。
最後までやることが美徳とも思わない。
もちろん最後までやり遂げてもいい。
縛りたくないし、縛られたくない。